Coach the novice. 2nd season

アメフト未経験。早稲田大学卒。企業に就職できなかった私がひょんなことから社会人アメフトのプロコーチに。コーチ歴2年の新米コーチの悩みや気づき、おぼつかない足取りを辿っていきます。

エッセイ「雑草か稲か」

雑草か稲か

 年に二回、夏と冬にボランティアで福島県いわき市に訪れる。僕は今回で四回目の参加で、意外に多いなと周りに驚かれる。普段、ボランティア精神に欠けているからなのか、僕には人のために行動する気概が感じられないらしい。
 前回の冬のボランティアでは参加希望のアンケートが行われ、参加を希望しない人が半数ほどいたらしい。私もそのアンケートで不参加である意思表示をし、冬のボランティアに参加しなかったのだから、なるほどボランティア精神は乏しいと言われても仕方がない。前回のアンケート結果を鑑みて、この夏のボランティアでは参加を希望するか否かに関係なく、全員がアンケートに回答させられた。

 この部がSNSを含む広報活動で目玉として打ち出している活動にオリーブプロジェクトがある。オリーブを福島県の復興のシンボルとして栽培しようというものだ。例年、ビッグベアーズファームと名付けられたオリーブ畑を半日かけて整備する。今年も相変わらず木の周りの雑草をむしり、しゃがみ続けることの過酷さと、木の幹が隠れるほどに雑草を放置してきた農家の方を呪った。と同時に思うのだ。そんなもんだよな、と。
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 オリーブ畑での活動は二日間ある日程の二日目に組み込まれたものだった。一日目は、いわき市の薄磯と呼ばれる地区での活動で、草むしりを行った。そう、草むしりを行ったのだ。あなたに分かるであろうか。二日間の行程表を「草むしり」の四文字で完結できるボランティア活動に参加する気持ちが。草むしり2Daysツアー@いわきである。
 ツアー初日。太平洋を望む海岸の周りにあるいくつかの公園で草むしりを行った。海風にはためく若い雑草が憎たらしい。宿舎となる山中の寺では涼しいと感じた福島の気候も、標高が下がれば東京と大差はなく、今朝より染みた汗でワントーン暗くなったシャツが、天日にさらされながら雑草をむしることへの抗議を呈している。昼食の時間になり、津波で多くの住居が流された跡地に、ポツンと建てられた真新しい一戸建ての前でお弁当を配られた。リビング部分の大きな空間を、普段は会議室として使っているのか、壁際にはいくつかの長机とパイプ椅子が寄せられていた。肩ほどの高さのホワイトボードには七月の日付が縦に並べて書いてあり、ツアー初日にあたる七月七日には黒のマーカーで「早稲田ラグビー部」と丁寧に書かれていた。
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 とはいえ、新しい体験もした。オリーブの苗の植樹だ。開墾仕立てで石が転がる畑を耕し、整え、苗を植えた。アメフト部もとい、ラグビー部として身体が大きい前提の作業が、すこぶる一般人の僕には堪えたが、部員のスピーカーから流れるエドシーランとブルーノマーズで構成されたミーハープレイリストを力に、何とか作業を終えた。心なしか、隣の田んぼで風に揺れる稲の緑色が、来た時よりも鮮やかに見える。手にまみれた泥をやけに冷たい用水路の水流がぬぐい、冷えた血潮が指先から全身に巡って体温を少しだけ下げた。
 作業を終え、別の畑で依然、草むしりツアーを続けている部員たちと合流するため、トラックの荷台に乗せてもらった。弾む車体にすこし足をすくませながらも、時速四十キロの風に前髪がはためく。僕は雑草か、それとも深緑の稲か。

 二日間で二回、講話を聴いた。一回目はいわき市語り部さんによる講話。二回目は泊まったお寺の住職さんによる講話。
 語り部さんは、被災時、津波に襲われ九死に一生を得た体験談を語った。その話を聞いて僕は思った。
〈この話、去年と全く同じじゃね?〉
去年と全く同じ内容の話を、初回と同じテンションで聞くことは至難の業である。新入生および、初めてボランティアに参加した部員以外は、昨年全く同じ話を同じ語り部さんから聞かされているのである。奥さんを置いて自分だけが高台へ続く階段を駆け上ったエピソードの後、「置いてきた私の奥さん、どうなったか気になりませんか」と言われた。気になるも何も、知っているのだ。ここに座っている部員の七割が知っているのだ。奥さんも階段を上っていて無事だったこと。そして愛犬二匹も無事だったことも。語り部さんは続ける。
「大丈夫です。奥さんも実は階段を駆け上がっていて、愛犬二匹とも無事でした」
 ただ、二回目だからこそ気づくこともある。一年前に同じ話を聞いた時よりも、確実に語り部スキルが上がっているのだ。話の構成、間の取り方、形容、身振り手振り…。あらゆる技術が上がっていて、大オチは知っているものの引き込まれるところがあった。では、その一年前の話と、今年聞いた話は本当に同じ話なのか。どちらがドキュメンタリーで、どちらがフィクションなのか。現実は、構成を持たない。形容は形而上の概念であり、身振り手振りは後付けだ。それでも、語り部さんによる話は、少なくとも一度目聞いた時には、僕にとっての現実として在った。今回初めて聞いた部員にとってもそれは同じだろう。実際に被災の現場にいなかった僕たちにとっては、語り部さんによる語りが「現実」なのだ。
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 二回目の講話は、住職さんによる「縁」の話だった。人の縁は、天文学的確率による奇跡だという、擦られ倒した話であった。誰かがどこかで生まれていなければ、私たちは出会っていない。その出会いに感謝しようというが、おかしな話である。僕が生まれなかったとして、その出会いを悔いることが出来るだろうか。無理だ。僕がいなかったとしても、僕ではない誰かが代わりに存在して、同じ話を聞き、思ったことをこうしてエッセイにして書くだけだろう。そういうどこかの枝分かれで別の道を進んだ世界を平行世界と言ったりするが、よくできた言葉で、平行であるからには絶対に交わらないのだ。つまり、今ある出会いに感謝するかどうかは別として、今ある出会いに、今ある出会い以外の出会いの可能性は存在しえないのだ。

 ボランティアに意思なんてものは関係ない。僕たちがアメフト部であろうとラグビー部であろうと関係ない。講話は語るたびに変化していくけれど、関係ない。当事者が語ることが現実なのだから。僕がいない世界では、みんなが今の出会いに感謝して、僕と出会えないことを悔やむことはないけれど、それも全く関係ない。そんな出会いはなかったのだから。雑草でも、稲でも関係ない。
僕たちはボランティアをした。関係あるのはそのことだけなのだから。