Coach the novice. 2nd season

アメフト未経験。早稲田大学卒。企業に就職できなかった私がひょんなことから社会人アメフトのプロコーチに。コーチ歴2年の新米コーチの悩みや気づき、おぼつかない足取りを辿っていきます。

エッセイ「私の履歴書:盲目的な情熱編」

 「私の履歴書」とは日本経済新聞に掲載されている連載記事で、各界の著名人がひと月かけて自身の半生を書き記したものだ。大学の講義で扱ってから気になる人物の連載を読むようにしている。そのうちに読むだけでは事足りなくなった私は、自分が何も成し遂げていない、むしろ大学を卒業できないというある種の失敗をしておきながら、あたかも著名人であるかのような筆運びで自身の履歴書を執筆したことがある。そして何をとち狂ったのか、私はその履歴書をありとあらゆる就職活動のエントリーシートに張り付けるという、考えなおすと恐ろしい行動をとった。そして当たり前のように不採用になった。知らねえ学生の何でもない自著エッセイを読まされた採用担当者様に、この場を借りて陳謝したい。大変申し訳ございませんでした。

 皆様にも是非、採用担当者の気持ちに共感しながら読んでいただきたい。

私の履歴書:盲目的な情熱編

 一九九六年に千葉県白井市に生を受けた私、松場智紀は四つ上の長男と、二年後に生まれる弟に挟まれたおかげで、親の目と愛情をかいくぐるようにして自由奔放に育った。海外転勤の多い父親に連れられ、小学二年生から中学二年生までをロンドン、ミュンヘンデュッセルドルフで過ごした。履歴書に立ち並ぶ横文字を駆使して、早稲田大学高等学院に面接のみで合格。「これで将来は安泰だなぁ~」と胡坐をかいていると、入学早々、実は英語もドイツ語も話せないことが発覚し、帰国子女というレッテルはむしろ貼らないほうが身のためだと学ぶ。
 進級試験の結果に毎年怯えながらも、なんとか文化構想学部への進学が決まった私は、「キャンパスライフ」という煌びやかな字面に鼻を膨らませていた。なにせ文化構想学部の男女比率は脅威の七:三。これはもう「キャンパスライフ♪」である。しかし、この踊る八分音符はすぐにデクレッシェンドからのピアニッシモで、見る影もなくす。三年間を男子校で過ごしたことが私に与えたダメージは大きく、クラスの半数以上が女子の大学では身動きが取れないのだ。前から回ってくるプリントを受け取るのにも、「ありがとう」という言葉が喉よりもはるか奥で詰まって吐息だけが漏れ出すという始末だった。そもそも私は人見知りなのだ。
 そんなこんなで、高校から始めた競技スキーのサークルに入った私は挫折をする。競技歴三か月の女子部員にレースで負けたのだ。項垂れた。悔しさと恥ずかしさの融合体が、私を練習から遠ざけた。私はプライドが高い。人見知りでプライドが高い。本当に扱いづらい人間だと思う。コツコツ積み上げたプライドが人知れず崩壊した私は、アメリカンフットボールへと惹かれていく。その年、もともとファンとして追いかけていた早稲田大学ビッグベアーズが、学生王者を決める甲子園ボウルへ六年ぶりに出場した。その試合を観戦した私は思う。

「どうしてこのチームに俺はいないんだろうか」

その衝動をそのままキーボードへと叩き込み、アメフト部のアドレスにメールを送信した。人生にターニングポイントを付けるとしたら、間違いなくここだと断言できる。
 入部希望を快諾してくれたチームに二年生から合流した私は、必死で一年のブランクを埋めようとした。私はアナライジングスタッフ(AS)という、分析を専門とするスタッフとして入部をした。アメフトは選手も専門職だが、スタッフもそれぞれ専門性があるのが特徴だ。私はここで自分のプライドの扱いを学んだ。先天的にあって仕方ないこのプライドは、プライドがあって然るべき自分を作り上げることで正統性を持たせられると考えた。プライド由来の悔しさを燃料に、人一倍努力した私は、すぐにチームに対しての発言力を獲得する。三年次にはチームの戦略を考えるアシスタント・オフェンスコーディネーターとして、オフェンスの選手百人を従えることになるが、それまで個人競技しかしてこなかった私は、大所帯を率いるリーダーシップを備えていなかった。私に向けられる多くの視線にたじろぎ、克服したはずの人見知りが頭を擡げてくる。練習やミーティングを思うように運営できず、試合中の指示と判断を誤った。
 二〇一七年十月二九日。日本大学戦。記録的な豪雨の中行われた試合だった。私の中で最も忌々しい出来事のひとつとして記憶されている。リーグ終盤戦の山場。負ければ大きく優勝が遠のく試合でも私は何度もミスをした。そしてその重圧に耐えきれず試合の後半、ほとんど声を発することが出来ずに試合を終えた。三―十四で敗戦。各メディアでも、オフェンスが得点できなかったことが試合の敗因として挙げられた。そこにプライド由来の悔しさなんてものはない。ただ茫然と、四年生のシーズンを終わらせてしまったことへの責任と、自分への失望を受け止めるほかなかった。チームの中で責任を持つことで、プライドが独りよがりな感情だと知った私は、それを捨てチームを勝たせることに自身の全てを捧げようと誓った。
 グラウンドの横に引っ越し、準備万端で迎えた四年生。オフを返上し、就職活動すらせず、ただひたすらにチームの勝利に向かって盲目的に活動をする私は、次第に自分と同じ熱量で活動しない部員を否定しだした。なんでできないんだ、なんでやらないんだ。そう吹いて回って、気付けば誰もついてきていない。その時後輩に言われたのが「人としてどうかしている」という辛辣すぎる言葉だった。それまでがむしゃらに走り続けていた私は、周りの部員と向き合うことにした。そこで気づいたのは、誰しもが勝つことへの欲求を強く持っていること。それをどうチームに還元すればいいのかが分からないだけで、皆が私と同じように負けたことをトラウマティックに感じていることを知った。そういった部員たちが持つ力を最大限生かせるように組織作り、モチベーションを維持することが求められているキャプテンシーだと考えた私は、それまでの前しか見ないで活動するのをやめ、前に立ちながら後ろに気にするようになった。
 徐々に私に対しての後輩からの怯えた視線はやわらぎ、同期からも最近尖っていないなと言われるようになった。そうしてチームとしての形を整えながらも、チームが勝つために出来ることは全てした。ほとんど全ての時間をアメフトに費やしてきたと宣言できるし、チームとしても過去最大の負荷をかけて成長を促してきた。その甲斐あって、リーグ戦を全勝で優勝し、私の率いるオフェンスはリーグ平均獲得点数でも一位を記録。去年逃した甲子園ボウル出場を決め、関西学院大学との一戦を迎える。
 二〇一八年十二月十六日。二年ぶりに帰ってきた甲子園球場。三万人の大観衆のなか、両チームが得点し、拮抗した試合展開が期待されたが、その後は一方的に攻め込まれ二〇―三七で試合終了。チームを日本一にすることは叶わなかった。敗戦後、セレモニーでトロフィーを掲げる関学大の選手を見ながら感じたのは、一年前の豪雨の中感じた自責や絶望とは違い、虚無だった。自分の全てを捧げた青春を失う事への虚無感。必死でやってきたがあまり、迫ってくる終わりに目を向けていなかった私は、突然現れたゴールラインに面食らった。そして、報道される関学大のインタビューや、関学大が勝つことを想定されて作られた密着ドキュメンタリー番組を見て、さらにその虚無感は強まる。自分たちの努力はどこにも形として残っていない。そしてだからこそ勝たなければいけないのだと思った。様々な大義名分を抱えながらも、私たちが勝たなければいけないのは存在証明のようなもので、勝つことでのみ私たちの取り組みが肯定され、成果が形として残るのだろう。学生スポーツの魅力は、学生にしか許されない、チームのためだけに活動できるという、ある種の自己中心的な青春にあるのだろう。
 シーズンを終えた私は、関東学生リーグのオールスター戦のオフェンスコーディネーターに選出された。四七―〇と爆発的な攻撃力でオールスター戦を終わらせることが出来た私には、いくつかの社会人クラブチームから声をかけていただいた。トップチームからもスタッフとして勧誘をして頂いたが、私はその中から一番弱いチームを選んだ。
 私はおそらく、日本アメフト史上最年少でコーディネーター職に就いた人間だ。もっと言えばアメフトをした経験すらない。そんな男が弱小チームを強くする。それが一番意味のあることだと思ったのだ。