Coach the novice. 2nd season

アメフト未経験。早稲田大学卒。企業に就職できなかった私がひょんなことから社会人アメフトのプロコーチに。コーチ歴2年の新米コーチの悩みや気づき、おぼつかない足取りを辿っていきます。

エッセイ「プロになるということ」

 プロコーチとしてチームとプロ契約をした。ついに。と枕詞をつけてもいいほどの、いわゆる苦節を私は経験していない。プロになっておきながらなんだという話ではあるが、そのことが多少のコンプレックスでもある。「苦節○○年」は「ついに」のさらに前に置かれる枕詞だから、「ついに」というならばそれなりの苦労と血と汗と涙があってしかるべきなのだ。たった1年。私のコーチ歴。たった4年。私のアメフト歴だ。ここで私は二つの立場のうち、どちらかに立つことを迫られている気がする。
 「少年少女よ!誰だってアメフトコーチになれるぞ!」というボーイズビーアンビシャス的な立場か、
 「いやいや、運よくチームに拾ってもらっただけですよ。」という謙虚男子の立場か。

 まず第一に、私と契約してくれる懐の深いチームには今世では返しきれないほどの感謝がある。決して謙虚に振舞っているわけではなく、富士ゼロックスミネルヴァとの出会いは本当に運に恵まれたと節々で感じる。私には際立った実績があるわけでもない。コーチとしてはリーグ優勝もプレーオフも経験していない。唯一あげられる実績といえば、多少SNSがバズって界隈でも知っている人は知っている程度の認知度を誇っているぐらいのものである。そんな私と年俸契約を結ぶのは英断としか言いようがないし、だからこそ私は勝つために兜の尾を締めるのだ。これまでもプロ意識をもって取り組んできたアメフトではあるが、いざプロの看板を掲げてみれば想像よりもはるかに外れやすそうな看板で不安になる。新たな自分への客観視に、期待半分と不安半分というのが今の私の胸の内だ。
 しかしながら、School of Analyzing and Scoutingで大学アメフト部の分析スタッフを相手に講師をしている身としては、プロになったことを「運が良かった」の一言で終わらせるのでは少々残酷な気もしている。それでも私はきっと運がいいのだ。それは契約のチャンスが転がってきたことだけなくて、アメフトと出会ったこと、そして魅了されたことが本当に幸運だった。
 「置かれた場所で咲きなさい。」と書いたのはノートルダム清心学園で理事長を務めたシスター、渡辺和子さんだ。納得いかない現状に文句をたれず、自らそこで花を咲かせる努力を惜しまないこと。花咲かないときには、長く根を伸ばして次の花が咲くときは大輪の花を咲かせましょう。そんな教えだ。高校を卒業するときにお世話になったドイツ語教師の方に聞かされて、それ以降本当にそうなのか考えることが何度かあった。というより、私は咲きたい場所で咲きたいと思ったのだ。
 私は飽き性だった。いや、飽き性である。趣味は何度も変わった。アイドルが好きな時期もあった。ギターや音響関連、絵画にレゴ。トランプマジックやらリュックサック集め。そんな趣味のせいで私の部屋は極めて一貫性がない。ストラトキャスターの両ツノにはヘッドホンが無造作にひっかけられて埃をかぶっている。半ば現代アートだ。現代アートといえば、空き缶のプルタブを1000枚集めて瓶に詰めるという、異様な達成感とは比例しない極めて不毛な趣味もあった。あれはいったいどこに消えたのだろうか。高校で打ち込んだスキーも、今では2年以上雪山にすら行っていない。水泳、サッカー、バスケ、テニス。どれも続かなかった。その中には、アメフトも入っていた。
 同世代はほとんど全員がアイシールド21に影響されているだろう。私も同じで、小学生の頃にアイシールドを見てアメリカンフットボールを知った。ドイツに滞在しているとき、小学校の担任の先生はアメフト出身で体育ではタッチフットをした。そこからタッチフットにドはまりして、センターから球を受けたQB(私)がそのままセンターの股の下からエンドゾーンに飛び込むというスペシャルプレーでタッチダウンしたのをよく覚えている。ミュンヘンからデュッセルドルフに転勤になり、ちょうど転校した年には、ドイツで行われたアメフトのワールドカップデュッセルドルフに訪れていた日本代表チームが学校でアメフト教室をしてくれた。木下典明選手などもそこで一度会っていたのだ。当時も今も第一線の現役選手だ。(ちなみにそのことは、以前行われたファンフェスタでご一緒したときにお話しできた。)しかしそれ以降、アメフト熱はパタリと消えて、次々に現れた面白そうなものが断続的に青春のハイライトとして記憶に残っている。

 それなのに今、アメフトのコーチとしてプロのキャリアが始まろうとしている。話題を自身の幸運についてに戻そう。そう、幸運だった。私は咲きたい場所を見つけることができたからだ。人生の振り返りで言いそうなセリフを23歳にして使っていいものか、いささか不安ではあるが齢90の頃にはそんなことも覚えていまい。アメフト、アナライジングスタッフ、コーチ。散々趣味をとっかえひっかえしてきて、ガラクタのように過去に詰まれたものの中から、私は咲く場所を発見したのだ。ここで咲きたいと強く願い、咲かせるために努力した。
 そう書きながら私は、だったら少しは自分も苦労しているのかもしれないと考えている。勉強にも、作業にも、スカウティングにも、それなりの時間と精神を割いていたが、生粋のマゾヒストではないことを前置きしたうえで言いたいのは、苦労することを楽しんでいた。自分を犠牲にしてチームに貢献することがある種の快楽で、そういった意味で自分とアメフトが同化するような、本当にこれ以上は書いていて気持ちが悪いのでやめよう。要するに、苦節とか苦労とかいうのは自分が決めることで、周りがどう思うかではない。逆に、苦しそうだなと自分が思うことでも、いざ経験すればそれが苦しさを覆すほどの価値かもしれない。書きたいことはそういう場所を探してほしいということで、苦労はするべき場所でしてほしい。
 今アメフト部でASをしている学生たち全員がコーチになることは難しいだろう。コーチを志すことすらないかもしれない。アメフトの価値が第一である必要はない。そこが私の咲く場所であっただけだから。それでもアメフトを次の青春として選んだ彼ら彼女らが、いつかどこかで咲く場所を見つけたときに「アメフトやっててよかった」と思い、咲く花の肥料になることを願って私はコーチをしたい。咲く場所として再発見されずとも、少なくともガラクタなりに役立つものにしてあげたい。生意気ではあるが、社会人チームにあってもその気持ちは変わらない。それどころか、プロとしてアマチュアスポーツをコーチするという大きすぎる捻じれを正そうと思うと、私はアメフトにそれ以上の価値を与えることが使命のようにも思えてくる。

 シスターの言葉をオマージュするなら、

 咲きたい場所で咲くべくして咲きなさい。

 そんな私は、ようやく一分咲き。枯れないように注意しなければいけない。ちなみに、あの1000枚のプルタブだけは何の肥料にもなっていない。いまのところね。