Coach the novice. 2nd season

アメフト未経験。早稲田大学卒。企業に就職できなかった私がひょんなことから社会人アメフトのプロコーチに。コーチ歴2年の新米コーチの悩みや気づき、おぼつかない足取りを辿っていきます。

エッセイ「Bギャップでの生活」

 外に出て自由に活動できない世界に、少しずつ慣れてきている。
 
 人は慣れる。環境がそうあることを要求してくるのであれば、基本的に何にだって慣れることができる。小学2年生のころに突然、和梨の名産地からロンドンで暮らすことになったのも慣れたし、言葉の通じない上になぜか飛び級で4年生のクラスに通うことになったのにも、数週間で慣れた。ミュンヘンデュッセルドルフへと転校続き。中学2年で日本に帰ってきたが、学校を国ごと移ることにも慣れた。あれだけ嫌がっていた男子校での生活は慣れるどころか、今の自分に欠かせないものだった。そして男子校で軽く患った女性への不慣れさも大学に進学してすぐに治ったし、男子校時代にあれだけ羨望と嫉妬の視線をそそいでいた「彼女持ち」だったが、いざ自分に彼女ができれば不思議と慣れた。
 住めば都。慣れるのを良いように捉えた言葉の代表だろう。大学4年次に暮らしていた寮は、都どころか百姓だって抵抗するような極小な居住空間だった。ベッドと収納、机を除けば動ける範囲は2畳ほど。必死のバイト代で学費や家賃を賄っているような学生にしてみれば、そんなのは普通だと怒られるかもしれないが、誰も1人部屋とは言っていない。そこに3人で暮らしていたのだ。さらに悪かったのは、同部屋の2人はオフェンスラインの選手だったから、「Bギャップでの生活」という表題は比喩ではなく、本当に180センチ以上、110キロ超の男二人の隙間で暮らしていたのだ。※Bギャップ:5人のオフェンスラインが並んだ時にガードとタックルの隙間のこと。
 寮には、さも住人かのような面持ちでゴキさんが生活を営んでおり何度もすれ違い、人間vsゴキの縄張り争いが絶えなかった。中でもコンペキ第2寮という寮名からもじった「ペキの湯」という愛称で親しまれていた大浴場は思い出深い。大浴場というだけあって、旅館を思わせる大きな浴槽が日々の疲れ癒し、裸の付き合いは同輩との絆を深めることに一役買った。時に悩みを打ち明ける場所としても在ったその大浴場は、どういうわけか下水から湧き上がってくる異臭に包まれていた。ペキの湯の唯一にして最大の欠点であり、それはお風呂という汚れを洗い流す場所としては、もはやアイデンティティの喪失に直結する重大な欠損だった。部屋の壁は、壁という言葉の概念を辛うじて保っている程度で、ギリギリでベニヤ板よりは厚いといったぐらいだった。他の部屋との会話はお互いが自室にいる状態でも、多少声を張れば問題なく行えたという点では、多少スマホの通信費は抑えられたように思える。寮はグラウンドに隣接していたため、練習を終えて部屋に戻ると寮生以外の連中によってベッドが占領されることもあった。
 寮の劣悪っぷりは枚挙に暇がないが、それでも都になった。そこで生きていくしかないから慣れた。都という表現は、不満足な環境に慣れる自分への嫌な自意識を和らげる効果がある気もする。
 母と別れたことにすら、慣れた。あまりに普通に生活している自分が嫌いになるときもあったが、そうするしか生きようがない環境は、人を選ぶ。だからそこで生きたい人間は慣れるしかない。

 そんな人間だから、すでに今の生活が板についてきている。ある程度したら練習が再開されることを見越して必要なミーティングをオンラインで行ったり、浮いた時間を生かして丁寧にアメフトに向き合ったり、YouTubeを始めてみたり。学生に向けた講義もオンラインで問題なく進行できることが分かって、これをきっかけに全国の大学に講義することが可能になった。そもそもほとんどがデスクワークな生業なものだから、ほとんど生活に影響がないレベルまで環境に適応してきている。私生活ではZoom飲みとかインスタライブとか、これまた電波のつながりを人の絆に代替して難なくやっていけそうだ。むしろ今までと違った刺激に楽しさ倍増といったものだ。現代技術に感謝!オンラインいいね!おうち時間で充実した自分の時間!サイコーサイコー!

 はっとした。そんな馬鹿な。そんなわけがない。何が最高なんだろうか。新しく生まれた娯楽のポジティブな刺激と世間の前向きな発信の渦に、私は引きずり込まれるところだった。暗いニュース、深刻さが前面に出された世の流れと窮屈な日々の活動にいよいよ慣れ始めた私は、その反動で画面上でも人と話せることや、思いのほか仕事が滞りなく進む環境に感動していた。実際、外に出るなと言われた時の右往左往した状況よりかは幾分ましなことに違いはないのだが、オンラインでの手ごたえのない人との関係性に満足しかけている自分がいた。
 そう、手ごたえ。時系列が前後するがオンラインでのつながりでは物足りなさがあった。どれだけリアルタイムに表情を見てコミュニケーションがとれても、乾杯ができても、画面共有ができても、それは手ごたえの無い人間関係をむしろハイライトした。当然、身体の距離は電波では埋めようがない。ついこの間までそう思っていたのに、絶対に最高なはずがない状況を「最高!!」と宣いそうになる自分が怖かった。人間がリアルに交流しない世界を受け入れ始めている。以前にこんなツイートをした。

 
ごく自然な流れでSFのような世界がやって来ることへの恐れを言葉にした自分が世紀末へと堕ちかけた。身体的コミュニケーションの一切を失ったディストピアに、「会う」ことが画面を通して顔を見せ合うことになった世界に、自ら歩み寄ってしまった気がした。
 ダメだ。慣れてはいけない。こんなところは絶対に都にしてはいけない。置かれた状況に嫌だ嫌だと文句をたれず、今ある喜びと幸せに満足をしろと言われるかもしれないが、私はそこまで達観できない。どれだけ世界が落ち込んだとしても、そこから数えた少しの喜びに満足したら一体全体、人間活動とは何なのだ。嫌なものは嫌だ。人と会えない世の中に慣れてしまったら、普通にはしゃげる世界を諦めたら、それこそそこにディストピアが始まる。

 今日も私はZoomで学生に講義をして、合わない乾杯の音頭を取り、背景を画像にする機能で大喜利をして爆笑する。でも忘れない。教室でのグループワークや講義、やかましい居酒屋でジョッキが雑にぶつかる音、羽目を外して隣の卓に迷惑がられるほどの大騒ぎは、もっともっともっともっと最高だったってことを。
 この環境だけには人間は慣れてはいけない。こんな世界に最高なんてない。